No.002    【日本のアルミ初めて物語】  PAGE 2

 では同時期の我国の状況はどうかというと、明治26年(1893)4月に書かれた「昨年以来當工廠に於て各種配合の礬素銅を試製致し兵器材料の製作に供用すべき金属に就き種々研究致居候処今漸く好成績を得るに到り候」という報告書が残されている。

 大阪砲兵工廠提理・太田徳三郎から陸軍大臣・大山 厳に提出されたもので、「礬素」とは当時の日本におけるアルミニウムの呼名である。 当時まだ鋼製砲に移行できずに鋳銅砲にとどまっていた我国の軍部は、青銅にアルミを添加することで少しでも材質を強化しようとしていたようだ。 この目論見は成功しなかったものの、明治27年(1894)頃から輸入地金を使って帯革や負革、剣吊りの尾錠、等の軍装品がアルミ合金で作られるようになった。

 明治28年の日清戦争の終了後、工廠はドイツから圧搾機や旋盤を輸入して、飯盒、水筒、火薬容器、食皿などをアルミで量産し始めたので、明治37年の日露戦争では陸軍兵士の殆んどが柳行李の弁当箱に替わってアルミ製飯盒や水筒を持つようになっていた。

 大阪城三の丸跡にあった大阪砲兵工廠を江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が訪れたのは明治36年5月のことであるが、工廠提理・楠瀬幸彦に案内されて大阪城天守閣跡に立った慶喜は、今昔の感に堪えない様子であったという。 鳥羽伏見の乱に際し幕軍敗走を知った彼は、自軍を欺き側近と共に江戸に敵前逃亡したが、それ以来の大阪城であった。 工廠内を見学した慶喜は製作中のアルミ飯盒に目をとめ、楠瀬からその使用法を詳しく聞いた。

「公は其一個を所望せられ、帰京の後、居間の火鉢にて親しく炊き試み給ひしに、日頃の食事にも勝りて極めて美味(渋沢栄一・徳川慶喜公伝)」であったという。

後日、慶喜からの「アルミが人体に害を及ぼすことはないか」との問合せに、楠瀬は「軍隊で使用して日なお浅く、確かなデータがないので何とも言えないが銀なら害は無いであろう」と回答した。すると慶喜からすぐ銀塊を送られてきたので、それを加工して銀製飯盒を作って返送したところ、慶喜は日々この飯盒でご飯を炊いて食べていたという。いかにも新し物好きの慶喜らしい話である。

 こうして培った生産技術をもとに、大阪砲兵工廠では民生用のアルミ加工品も製造して民間業者に卸売りもしていた。その販売にあたったのが金物商の高木鶴松だが、彼は工廠製品の販売だけでは飽き足らず、工廠でアルミ加工に従事していた小谷春次郎、吉村亀吉を引き抜き、休業していた大阪時計製造会社の工場の一部を借りて、自ら生産に乗り出した。明治35年10月のことで、我国民間初のアルミ器物製造工場の誕生であり、ツルマル印の名で知られる日本アルミニウム株式会社の前身である。


前ページ
前へ
エッセイホーム
ホーム
次ページ
次へ