大阪城三の丸跡にあった大阪砲兵工廠を江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が訪れたのは明治36年5月のことであるが、工廠提理・楠瀬幸彦に案内されて大阪城天守閣跡に立った慶喜は、今昔の感に堪えない様子であったという。 鳥羽伏見の乱に際し幕軍敗走を知った彼は、自軍を欺き側近と共に江戸に敵前逃亡したが、それ以来の大阪城であった。 工廠内を見学した慶喜は製作中のアルミ飯盒に目をとめ、楠瀬からその使用法を詳しく聞いた。
「公は其一個を所望せられ、帰京の後、居間の火鉢にて親しく炊き試み給ひしに、日頃の食事にも勝りて極めて美味(渋沢栄一・徳川慶喜公伝)」であったという。
後日、慶喜からの「アルミが人体に害を及ぼすことはないか」との問合せに、楠瀬は「軍隊で使用して日なお浅く、確かなデータがないので何とも言えないが銀なら害は無いであろう」と回答した。すると慶喜からすぐ銀塊を送られてきたので、それを加工して銀製飯盒を作って返送したところ、慶喜は日々この飯盒でご飯を炊いて食べていたという。いかにも新し物好きの慶喜らしい話である。